『空のカフカ』
佐伯さんがピアノを弾いている。流れ出る音が、僕の心を振るわせる。
しなやかな指先で弾かれる鍵盤と弦の動き、そして、佐伯さんの透き通った歌声に、
僕は心を奪われた。
佐伯さんが演奏の手を止める。
「よし、そろそろ閉館の時間だね。帰るとしよう。」
書斎の後片付けを終えた佐伯さんと僕は、図書館を出た。
駐車場には白のコペンが止まっている。
佐伯さんがスマートキーでコペンのロックを解除し、運転席に乗り込む。
「乗りなよ。家まで送るよ。」
コペンのエンジンが作動し、エキゾーストサウンドが気持ちよく吹き抜ける。
閉じられていたルーフは解放され、
機械の駆動音と共に後方のトランクへとしまい込まれる。
オープン2シーターライトウェイトスポーツカー。
コペンのもう一つの姿だ。
僕はコペンの助手席に設置されたレカロシートに腰を沈め、カラダをホールドさせた。
エンジンの鼓動が伝わって来る。
佐伯さんがエンジンを吹かす。
「直列4発のDOHC JB-DETエンジン。官能サウンドだ。」
そう言って、佐伯さんはイタズラな笑みを浮かべた。
「佐伯さんは、音楽が好きなんですね。」
「そうだね。音楽は僕の人生にとって欠かせないものだよ。」
「それは、何故ですか。」
エンジンのアイドリング音が響く。佐伯さんは少し考え込む。
「良い質問だね。例えるなら、音楽は暗い寒空の下、凍えて家に帰って来た時に当たる暖炉の光のようなものだよ。その光は、僕の手足を縛っている氷の鎖から解き放つ。そして僕はその手を伸ばし、光の源、そう、炎の分子一つ一つを丁寧に探る。ヴァイオリンの音を探るように、幸福をつかみ取る。僕にとって音楽とはそういったものだよ。光のないアンハッピーな人生なんてつまらないからね。」
佐伯さんがシフトを1速に入れ、クラッチを合わせる。車輪が動き出す。
「そうだ。ダッシュボードを開けてごらん。」
僕は言われた通り、ダッシュボードを開けてみた。
そこには一冊の書物があった。
「これは?」
「聖書と肩を並べる聖典。モルモン書だよ。」
「イエス・キリストについてのもう一つの証。」表題にはそう書かれている。
「君にプレゼントしよう。君には『読書力』がある。理解も早いだろう。その書物は君にとってきっと価値のあるものになる。
全ては君次第だけど、これから必ず来る世の嵐からきっと君を解放してくれる。」
「ありがとうございます。」僕はその書物を手に取った。
佐伯さんがニコリと笑った。
「Bless you. そうだ。ピアノも始めてみるかい? 春日くん。自らを解放するのだ。」
僕達が乗るコペンはシフトを上げ、図書館を抜けて風の中を疾った。
図書館の中庭でたたずむミカエル像の下で、ネコが夜空を見上げた。