イギリスへの伝道
「イギリスに召される十二使徒」
1837年7月8日、ほかの啓示を通して、
ジョン・テーラー、またジョン・E・ページ、ウィルフォード・ウッドラフ、ウィラード・リチャーズが十二使徒に召された。
使徒たちには「大海を越えて行き、そこでわたしの福音、すなわち完全な福音を広め、わたしの名について証しなさい」(教義と聖約118:4)という責任が与えられた。主はまた、1839年4月26日に彼らに、ファーウェストを出発してイギリスへ向かうように命じられた。
「宣教師たちの出発」
病み上がりの体で衰弱していたが、私はミシシッピ川の岸まで歩いて行った。
そこでヤング十二使徒定員会会長がわたしをカヌーに乗せ…川向こうまで運んでくれた。
岸に上がると、私は郵便局のそばで、皮の上に体を横たえて休息を取った。
神の預言者ジョセフ兄弟がやって来て、わたしを見て言葉をかけた。
『ウィルフォード兄弟、伝道への旅を始められたのですね。』
わたしが『そうです。しかし宣教師というよりは解剖室へ送られる死体という感じです』と言うと、
ジョセフは『どうしてそのようなことを言うのですか。さあ、起きて旅を続けなさい。すべてがうまくいきます』と答えた。
ほかの兄弟の旅立ちも同じように困難を極めた。
ブリガム・ヤングは助けなしには川までの500フィート(約150メートル)の距離も歩けないほどだった。
「イギリス諸島」
イギリス諸島では宣教師としての十二使徒来訪の機が熟していた。イギリス国民の多くは、
アメリカから来た宣教師たちと言語、文化、伝統などの面において、共通の地盤となるものを持っていた。
イギリスでは信仰の自由は根強い習慣として残っており、ヨーロッパ大陸に特有の聖職者への強い依存というものもなかった。
人々は使徒たちが伝道に用いていた欽定訳を誇りにし、聖書を愛しよく読んでいた。
またイギリスには宗教的礼拝を尊重する法律の一律的適用を保護する強力な中央政府があった。
それゆえ、宣教師たちはイギリス国内のどこへ行っても、ほかの教会の聖職者たちと法律的に対等の立場にあった。
また産業革命は下層階級の社会的地位を弱め、その階級の人々は聖職者からも見捨てられたという意識を持っていた。
多くの人々がそれぞれの生活の中で、霊的にも物質的な面でも支えになるものと喜びを求めていたのである。
これは大英帝国に福音を伝えるために主によって備えられた状況であった。